《水都大阪 水辺散策手帖》エリア別水辺散策案内 3「中之島エリア」
【エリア別水辺散策案内】
水都大阪に繁栄をもたらしてきた都心のアイランド
中之島エリア
北を堂島川、南を土佐堀川に挟まれた東西約3㎞におよぶ中洲が中之島です。中之島は、水都大阪の繁栄をもたらした島であり、その後も時代時代の大阪を象徴する顔となってきました。
中之島の形成
かつて農地だった中之島は、江戸時代に大阪屈指の豪商であった淀屋常安によって、開発が進められ、16世紀後半から諸藩の蔵屋敷の開設が始まりました。堀川の整備が進み、安治川の開削で大阪湾に入った船が市中近くまでさか上ることができるようになった17世紀後半には、蔵屋敷は急激に増加し、最盛期である19世紀初頭には、100を優に超える数がありました。
蔵屋敷は、領内で年貢として徴収した米や特産物の保管庫兼大阪屋敷です。これらの産物は江戸をはじめ全国に流通し、大阪は日本最大の物流拠点「天下の台所」として日本経済の中心地となりました。中之島に蔵屋敷が建ち並ぶ姿は、大阪が経済の中心地であることを象徴する姿でした。
しかし明治時代に入って各藩が廃止されると、蔵屋敷も不要となったため、その跡地は中之島公園をはじめ、大阪府立中央図書館や大阪市中央公会堂などの公共施設、文化施設に利用され、中之島はまたしても新しい時代の大阪を象徴するエリアとなりました。現在は、御堂筋沿いに市役所、日本銀行などの歴史的建築物が建ち、西には大企業やホテル等の高層ビル群や国際会議場、大阪中之島美術館をはじめとする文化施設が林立し、大阪の文化、経済の発信基地となっています。さらに、都会にありながら川を眺めたり、散策したりできる環境の良さから、高層マンションも建ち並び、居住地としても人気のエリアとなっています。
「浪花十二景ノ内 堂島米市場」笹木芳光、明治初年(大阪府立中之島図書館所蔵)
「堂島米市場跡」碑
浪華三大橋
江戸時代の大阪には、幕府の経費で架橋・修復する「公儀橋」は12橋ありましたが、その中でも大川に架かる天満橋、天神橋、難波橋は「浪華三大橋」と称されました。難波橋は、中央が高く弓状に反った反り橋だったため、周辺の16の橋が遠望できたと言い、大阪有数の行楽の地となっていました。
現在の難波橋と天神橋は、中之島を跨いで堂島川・土佐堀川の2本の川に架かっています。しかし、江戸時代には中之島は難波橋の下流までしかなかったので(その後、中之島は上流方向に拡張されました)、当時は3橋とも大川を一気に跨ぐ文字通りの大橋だったのです。しかも、当時の大川は今よりも川幅が広く、例えば天神橋で言えば、昭和9年(1934)架橋の現在の鋼製アーチ橋は全長211mですが、江戸時代の木橋は250mもありました。「天神橋ゃ長いなぁ、落ちたら怖いなぁ」と唄われたのも納得ですね。
天満橋は、昭和45年(1970)に交通渋滞を緩和するために、それまでの橋の上層部に新跨道橋(新天満橋)が建設されました。この上下二段の重ね橋は近代的な「水の都」の景観となっています。
『乗陸必携、大川便覧』部分、髙嶋春松、1843年(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)
浪華三大橋の難波橋、天神橋、天満橋が描かれていますが、中之島の東端(上流部)が難波橋に届いていないのがわかります。
『浪花百景 三大橋』歌川国員、江戸後期(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)
天神橋
もともとの天神橋は難波橋・天満橋と同じく大川を一気にまたいでいました。しかし、大正4年(1915)の淀川低水工事で出た土砂で中之島公園を上流側へ拡張する埋立工事が行われ、大正中期以降には中之島は天神橋より少し上流に達したため、橋は堂島川と土佐堀川に架かる橋になりました。現在の橋は、松屋町筋の拡張に合わせ、昭和9年(1934)に架けられた3連の銅製アーチの橋です。鉄橋時代の橋名飾板は、現在天神橋北詰に保存されています。昭和62年(1987)、中之島公園の剣先側にらせん形のスロープが設けられ、公園に降りる階段には遣唐使船の陶板ブロックや天満宮所蔵の天神祭絵巻を模写した絵陶板も飾られています。
昼の天神橋
橋のライトアップは「灯りのゆらめき」をテーマに、オレンジ色の温かみのある光が低く軽快なアーチを水上に鮮やかに浮かび上がらせています。らせんスロープは大阪・光の饗宴のエリアプログラム「水都大阪ウイーク 中之島EAST水辺の散歩道」として、水都大阪コンソーシアムが冬季にライトアップを行っています。ゆっくりと色が変化して中之島の先端に建つ灯台のような景観を見せてくれます。
夜の天神橋
難波橋
橋のたもとには、阿吽一対のライオン像が出迎えてくれ、ライオン橋の愛称で親しまれています。水の回廊に架かるすべての橋には、船から橋の名前が分かるように橋の名前が掲げられているのですが、難波橋は、平成21年(2009)に当時の橋下知事と平松市長の揮毫によるものです。
難波橋

平松元市長による揮毫

橋下元知事による揮毫

『浪花百景 浪花橋夕涼』歌川国員、江戸後期(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)
かつて行楽地でもあったこのあたりは、花見や月見、花火見物に格好の場所としても、多くの人を集めていました。
中之島公園
明治24年(1891)に大阪市初の市営公園として整備された中之島公園は、堂島川と土佐堀川に挟まれた東西約1.5km、面積11.3haの都心のオアシスです。春秋には芝生広場で過ごす親子連れやグループで賑わいます。
園内のバラ園は有名で、約310品種、3700株のバラが植えられており、春と秋のバラの見頃の時期には多くの人がバラ鑑賞に訪れます。中央のパッチワーク花壇には西から東に向かって古い品種から植わっているので、歩きながらバラの文化史を知ることができます。
中之島公園
大阪市中央公会堂
大正7年(1918)、蔵屋敷が廃止されて町が衰退していた中之島に、市民の集いの場として建設されました。ネオルネッサンス様式を取り入れた格式高い建築で、国の重要文化財にも指定されています。建設費はアメリカの寄付文化に感銘を受けた株式仲買人の岩本栄之助が寄付した100万円(現在の数十億円)で賄われました。しかし、その後栄之助は第一次大戦による株式相場の大変動で大きな損失を出し、周囲からは大阪市に寄付した100万円を少しでも返してもらうように勧められますが、「一度寄付したものを返せというのは大阪商人の恥」としてこれを拒否、大正5年(1916)、公会堂の完成を見ないまま自死しました(享年39)。
大阪市中央公会堂
大阪市立東洋陶磁美術館
中国陶磁・韓国陶磁を中心に展覧する、東洋陶磁のコレクションとして世界第一級の質と量を誇る美術館です。国宝2点と重要文化財13点を含む約2,700点を収蔵しています。令和6年(2024)にリニューアルオープンし、最新の照明やAR技術でより鑑賞が楽しめるようになりました。カフェも開設されました。

大阪市立東洋陶磁美術館
こども本の森 中之島
「こどもたちに多様な本を手にとってもらい、無限の創造力や好奇心を育んでほしい」という想いでつくられた文化施設です。建築家安藤忠雄氏による建物と青いリンゴのオブジェは、船からもひと際映えて見えます。入館は事前予約が必要ですが、大人だけでも入館可能です。

こども本の森 中之島
北浜テラス
「北浜テラス」は、中之島公園の対岸、土佐堀川に面する大阪の川床です。大阪の新たな風物詩として水辺に賑わいをもたらすことを目的に、北浜地域のテナント、建物オーナー、NPO、住民等からなる北浜水辺協議会が実施運営しています。水面をゆく観光船の乗客と手を振りあえるほど近い距離で川を感じながら、飲食が楽しめます。現在は14軒の人気レストランやカフェが軒を連ね、大阪のおしゃれスポットとして人気を集めています。テラスからは川の向こうに中之島公園の緑や大阪市中央公会堂を眺めることができ、都会の真ん中にいるとは思えない開放感が味わえます。

北浜テラス
適塾
北浜のオフィス街に現存する「適塾」は、蘭医学研究の第一人者とされた緒方洪庵が天保9年(1838)に開いた塾の遺構です。洪庵の号「適々斎」にもとづいて名付けられ、「適塾」と呼ばれました。塾頭を大村益次郎や福沢諭吉らが務めたほか、門下生の橋本左内や長与専斎など幕末から明治にかけての名士を数多く輩出しました。現在は国の史跡・重要文化財に指定され、内部を観覧することができます。

適塾

『浪花百景 大江ばしより鍋しま風景』歌川国員、江戸後期(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)
北新地を生んだ堂島新地と曽根崎新地
現在の堂島は、梅田の南方向に連なるオフィス街として知られますが、かつては、南側を堂島川、北側を曽根崎川(蜆川)に挟まれた中州であり、その名の通り「島」でした。江戸時代前期には、「堂島新地」と呼ばれる遊興地が繁栄しましたが、やがて蔵屋敷や米市場が立地したのに伴い、遊興地の中心は曽根崎川北岸の曽根崎新地に移ります。明治42年(1909)に曽根崎川は埋め立てられ、堂島は「島」ではなくなりましたが、現在も北新地として賑わっています。

「曽根崎川跡」碑
中之島クロス
中之島クロスは令和6年(2024)6月にグランドオープンした未来医療国際拠点です。医療機関と企業、スタートアップ、支援機関等が一つ屋根の下に集積する、他に類を見ない未来医療の産業化拠点です。
「未来医療 MED センター」「未来医療 R&D センター」「中之島国際フォーラム」の3つの施設(エリア)で構成されており、それぞれ未来医療の「実践」「創造」「共有」の役割を持っています。

中之島クロス
大阪中之島美術館と佐伯祐三
令和4年(2022)に開館した大阪中之島美術館は、19世紀後半から現代までの美術・デザインを中心とする膨大なコレクションを所蔵・展示しています。なかでも、大正・昭和初期の代表的な洋画家・佐伯祐三の作品は日本最大級の質と量を誇っています。
佐伯祐三は、明治31年(1898)に中津村(現大阪市北区中津)の光徳寺に生まれ、東京美術学校を卒業後、フランスのパリに滞在して画業に励みました。昭和元年(1926)から翌年にかけて一時期だけ帰国しましたが、その短い日本滞在中に安治川や尻無川に碇泊する帆船を主題とした絵を20点ほど残しました。そういえば、光徳寺のすぐ北を西流することになる淀川改修工事は、祐三誕生の2年前に始まり明治43年(1910)に完成していますから、祐三は幼少のころから河川に特別な思いを抱いていたのかもしれません。
大阪中之島美術館
蛸の松
蔵屋敷が並んでいた時代、堂島川沿いには各藩自慢の松が植えられていました。中でも堂島川左岸の久留米藩と広島藩の境の浜の松は、その枝ぶりが蛸の姿に似ていたことから「蛸の松」と呼ばれる名木でした。平成16年(2004)の護岸工事の際に、「蛸の松」が植わっていた対岸の田蓑橋北詰に、かつての風趣を偲んだ「蛸の松」が再現されています。

蛸の松

『写真浪花百景 中の嶋蛸の松』長谷川貞信、1868年頃(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)
福沢諭吉誕生地(中津藩蔵屋敷跡)
明治期の思想家であり、慶應義塾を開設した福沢諭吉は、天保5年(1834)に中津藩蔵屋敷で生まれました。現在はこの地に「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズ」との名言とともに、「福沢諭吉誕生地」碑が建てられています。

「福沢諭吉誕生地」碑(中津藩蔵屋敷跡)

『浪花百景 玉江橋』歌川国員、江戸後期(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)
橋の向こうに四天王寺の五重塔が見えます。
水上瀧太郎 『大阪の宿』 文学碑
水上瀧太郎(1887~1940)は、大正6年(1917)に明治生命保険会社の大阪支店副長として大阪に赴任しました。大阪では土佐堀川沿いの旅館を止宿とし、そこから眺めた土佐堀川の様子を小説『大阪の宿』 (1926年、友善堂)に残しています。
会社から帰つて、湯に入つて、晩酌の後で飯を喰ふと、縁の籐椅子に腰かけて、川風をなつかしがりながら、舟のゆきゝを見て暮らす事が多かつた。淀川へ上る舟、河口へ下る舟の絶え間無い間を縫つて、方々の貸舟屋から出る小型の端艇(ボート)が、縦横に漕廻る。近年運動事は東京よりも遥かにさかんだから、女でも貸端艇を漕ぐ者が頗る多い。お店の小僧と女中らしいのが相乗で漕いでゐるのもある。近所の亭主と女房と子供と、一家總出らしいものもある。丸髷や銀杏返の、茶屋の仲居らしいの同志で、あそんでゐるのもある。三田もふいと乗つてみる氣になつて、一人乗の端艇を借りたのが病つきになり、天気のいゝ日には、大概晩酌後、すっかり暮れきる迄の時間を水の上に過した。
なお、土佐堀川の肥後橋下流右岸には、『大阪の宿』の文学碑が建てられ、次の一節が刻されています。
三田は變に寂しかつた。欄干(てすり)に近く遥々と見渡される澄み渡った星空の下を、靜に下る川船の艪の音が、ぎいと冴えて聞えて消えて行く。
(髙島)
水上瀧太郎 『大阪の宿』 文学碑
《コラム》 「水の都」の小説
宮本輝『泥の河』(1978年、筑摩書房)
宮本輝(1947~)自身の幼少期をモチーフにした作品で太宰治賞を受賞しています。高度経済成長期を迎えようとする昭和31年(1956)頃の安治川の河口付近を舞台に、川岸で営まれる食堂の息子と、その対岸に停泊している船上生活者の姉弟の交流を描いています。「水の都」を描いた名作として、昭和56年(1981)には小栗康平監督によって映画化され、平成23年(2011)には土佐堀川の湊橋南詰めに「小説『泥の河』舞台の地」碑が建てられました。碑文には、小説の冒頭部、中之島の西端に架かる3つの橋を描写した場面と、船上生活者の船を遠望するシーンが刻されています。
堂島川と土佐堀川がひとつになり、安治川と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。その川と川がまじわるところに三つの橋が架かっていた。昭和橋と端建蔵橋、それに船津橋である。
「あそこや。あの橋の下の、・・・ほれ、あの舟や」
目を凝らすと、湊橋の下に、確かに一艘の舟が繋がれている。だが信雄の目には、それは橋げたに絡みついた汚物のようにも映った。
「あの舟や」
「・・・ふうん、舟に住んでんのん?」
「そや、もっと上におったんやけど、きのう、あそこに引っ越してきたんや」
(髙島)
「小説「泥の河」舞台の地」碑
《コラム》 「水の都」の小説
高村薫『黄金を抱いて翔べ』(1990年、新潮社)
日本推理サスペンス大賞受賞を受賞した本作は、高村薫(1953~)のデビュー作です。土佐堀川の淀屋橋下流左岸に位置する住友銀行大阪本店(現三井住友銀行大阪本店)を舞台とした金塊強奪計画がテーマです。この頃の土佐堀川はまだ汚濁の川でした。小説は、遺体を包んだゴミ袋が流れるシーンから始まります。
泥色の土佐堀川を、一面の光の粒が覆っていた。四十メートル川上の橋の近くに、何かが浮かんでいた。ボロ布かゴミ袋のようだった。最近は魚も住んでいるというが、大阪の川にゴミが流れていない日はない。何かの塊は、流れに乗ってゆっくりと動いていた。ゴミ袋ではなかった。濁った水の下に揺らめくそれは、やがてふやけた白っぽい塊になり、ゆっくりと浮かび上がってきた。
当時は、このような設定を受け入れる川だったのですね。その後の浄化作業により、汚濁はかなり改善され、平成24年(2012)に同名で映画化(井筒和幸監督)されると、さすがにこの頃には遺体が浮かぶシーンは違和感があったのでしょうか、川岸から流したゴミ袋はすぐに川底に沈む演出になっています。フィクションとはいえ、現実の川の清濁は無視できなかったということでしょうか。
(髙島)