《水都大阪 水辺散策手帖》水都大阪の生い立ち

水都大阪 水辺散策手帖

 海から生まれた大阪平野

古代の大阪は、まだ海の底でした。およそ6000〜7000年前、縄文時代の大阪湾の海水面は現在より1〜2mも高く、生駒山地の山麓付近まで海岸線が深く入り込み、その海を切り裂くように、半島状の上町台地が北へ突き出していました。やがて台地の北の先端に砂州が延びていくと、西方の「大阪湾」と東方の「河内湾」に分断されます。
その後、地殻変動による海底の隆起や、そこを流れる河川が土砂を堆積させたことにより、大阪湾の海岸線は西方に大きく後退して、現在の大阪平野が形成されます。一方、河内湾も淡水化が進み、河内潟から河内湖を経て河内低地になります。

海から生まれた大阪平野

《コラム》 大海の名残を留める地名

海から生まれた大阪には、水を匂わせる地名がたくさん残っています。「〇浜」「〇島」「〇津」「〇江」などの地名は、そこがかつては海岸、島、津(渡船場)、入江だったことを示しているのです。

(例) 福島・堂島・江之子島・加島・歌島・柴島・姫島・御幣島・出来島・西中島・東中島・中津・江坂・住之江

 日本の玄関口・国際交易港

国際交易港「難波津(なにわづ)」

古くから陸地であった上町台地の北端には「難波津」という港があり、シルクロードの終着点として機能していました。難波津には多くの人が往来し、中国をはじめシルクロード各地の文物が、ここ大阪を玄関口として日本へもたらされました。
この地に「日本初の首都」とされる「難波長柄豊碕宮(前期難波宮)」が置かれたのは、白雉2年(651)のことです。平安遷都までの約150年間、難波津は政治・文化の中心としての役割を果たしました。

8・9世紀の東アジア交通路

8・9世紀の東アジア交通路
出典:『千年都市大阪 まちづくり物語』財団法人大阪市都市工学情報センター、1999年、7頁

国内の水陸交通ターミナル「渡辺津(わたなべのつ)」

現在の天満橋から天神橋のあたりの川岸は、10世紀の末頃から「渡辺津」と呼ばれていました。紀伊の熊野三山を目指す熊野参詣では、京都から淀川を船で下って渡辺津に上陸し、ここから陸路の熊野街道を行くルートが利用されました。通過点には四天王寺や住吉大社もあり、さらには高野参詣も可能な街道であったため、当初は上皇の御幸などに限られた熊野参詣も、15世紀の中頃には庶民の間に広がっていきました。

《コラム》 日本最古の橋「つるのはし」

江戸時代の大阪の橋数の多さは「八百八橋」と称えられましたが、日本最古の橋も大阪にありました。『日本書紀』仁徳天皇14年(986)11月に「猪甘津に橋をわたす」と記録されています。猪甘津は、猪飼野津(大阪市生野区)とも書きます。それは、古代の上町台地の東方にあった河内湖が次第に陸地化する過程で架橋されたもので、かつての平野川(旧、大和川)に架かっていた「鶴の橋」がこれに当たります。昭和15年(1940)の平野川埋め立てによって橋は廃止されましたが、その跡地には「つるのはし跡」の石碑が建てられています。

つるのはし跡

つるのはし跡

 栄華を極めた水の都大阪

豊臣秀吉による大阪のまちづくり

天下統一を果たした豊臣秀吉が築城した大阪城の城郭はかなり広く、北は大川、東はJR大阪環状線、南は空堀商店街あたり、西は東横堀川まであり、そこを惣構えとして防御の最前線としました。当時の天守閣は、現在の天守閣よりも少し北東に立地しており、京から大阪に至る京街道を来ると、真正面に天守閣が見えるように設計されていました。
当初、秀吉は貿易港・堺の経済基盤を外港として取り込むことを目論んで、大阪城から南北に都市の機能を配置しようとしたのですが、慶長元年(1596)、堺が大地震で壊滅的なダメージを受けたため、港の機能を堺から大阪城の西の船場に持たせることに計画を変更し、都市づくりは西へ拡張するかたちになりました。

豊臣時代の大阪城下町

豊臣時代の大阪城下町
出典:『大阪まち物語』なにわ物語研究会、創元社、2000年、53頁

市中に張り巡らされた堀川

城の東を南北に流れる東横堀川は、城の守りとしてだけでなく、城のある上町地区の排水路としても機能させていましたが、秀吉は大阪城西側に城下町を建設するにあたって、建築に適した乾いた土地船場地区とそのさらに西側の湿地帯との間にも、南北に西横堀川を開削し、船場地区の排水を流しました。
東西の堀川に流れ込むように整備された下水溝は後に「太閤下水」と呼ばれ、衛生的な都市生活のための画期的なアイデアでした。現在も約20㎞が現役で活躍しています。
さらに東横堀川と西横堀川を東西につないで木津川へ流し、淀川の水が大量に流れるようにして、衛生状態を改善したのが道頓堀川です。
江戸時代に入っても堀川の開削は続けられ、率先して堀川を開拓した町人には土地の税金が免除されたため、競い合うように開発が進み、江戸堀川、京町堀川、海部堀川、長堀川、立売堀川、薩摩堀川と次々に堀川が誕生したのに伴い、数多くの橋が架けられました。橋には、幕府の費用によって架橋・修復する「公儀橋」と、町人が費用を負担する「町橋」があります。大阪と江戸の橋数を比較すると、大阪は約200、江戸は約350と言われます。ところが、江戸はそのうちの半数近い160ほどが公儀橋だったのに対し、大阪の公儀橋は難波橋・天神橋・天満橋など12に過ぎませんでした。町人たちが大阪の橋を支えていた、これが「浪花の八百八橋」といわれるゆえんです。
こうして市中は船で行き来できるほどに発達し、物流が大阪の経済を発展させていきます。また船で芝居を見に出かける等、水の都ならではの人々の営みがかたちづくられていきました。

「新撰増補大坂大絵図」1691年

「新撰増補大坂大絵図」1691年
出典:『大阪建設史夜話・大阪古地図集成』1980年(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)
西横堀川より西側の下船場と呼ばれるあたりは、湿地で建築しにくい土地だったため、掘った土を沿岸に盛って土地を造成していきました。下船場は西に向かうにしたがって地盤が低くなるため、より多くの土が必要になり、西に向かうほど堀川の幅は広くなっていきました。

水の都として栄華をきわめた江戸時代

貞享元年(1684)、淀川の氾濫による洪水対策として、淀川河口に立ち塞がっていた九条島を分割するように運河が開削されました。この安治川によって、淀川の水が速やかに海に流れて洪水の被害を減らすことができるとともに、大阪湾へ入った船が安治川をさかのぼって市中近くまで行けるようになり、海と市中が水運でスムーズにつながることで大阪は全国の物流拠点として飛躍的に発展することになります。
まずは東北地方の酒田からの日本海を西走し下関を経て瀬戸内から大阪に入る「西廻り航路」が切り開かれました。主に北前船がこの航路を利用して、大阪の食文化に大きな影響を与える昆布などをもたらしました。続いて、酒田から津軽海峡を経て太平洋を江戸に向かう「東廻り航路」も開発され、その延長線上に位置する江戸・大阪間の「南海路」には多くの菱垣廻船や樽廻船が往復し、安治川河口は「出船千艘、入船千艘」と言われるほど多くの船で賑わいました。

「「菱垣新綿番船川口出帆之図」含粋亭芳豊、江戸後期(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

「菱垣新綿番船川口出帆之図」含粋亭芳豊、江戸後期(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)
毎年秋に収穫した河内の新物の綿を、一刻も早く菱垣廻船で江戸に運ぶ「新綿番船」というレースは大変な賑わいで、1694年ごろから180年間ほど続きました。開始当初は大阪から江戸まで一ヶ月かかっていたそうですが、だんだんスピードアップし、48時間という最高記録も残されています。

 水の都の第2章

黄金時代の終焉

明治時代になり近代を迎えた大阪には、安治川河口に大阪湾、川口に外国人の居住区域として居留地が誕生します。川口波止場には税関や電信局も整えられ、大阪近代化の基盤として期待されましたが、河川港だったために近代的な大型船の入港が難しく、神戸港にその役割を奪われます。また、鉄道の敷設、道路整備による陸運の発達により、水運は徐々にその役割を狭めてゆき、水の都の黄金時代は終焉を迎えたのでした。

川口居留地の賑わい
「浪花川口途上水より傳信機を見る」長谷川小信、明治初期(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

木津川東岸にあった大阪府庁舎(現、大阪市西区江之子島2丁目)。江之子島政府とも呼ばれた。
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

<埋め立てられた主な堀川>
①天満堀川 ②長堀川 ③高津入堀川 ④難波新川 ⑤西横堀川
⑥江戸堀川 ⑦京町堀川 ⑧海部堀川 ⑨阿波(座)堀川 ⑩立売堀川
⑪薩摩堀川 ⑫堀江川 ⑬いたち川 ⑭十三間川 ⑮曽根崎川

《コラム》 大阪の橋数が本当に八百八橋になった時

「浪花八百八橋」と呼ばれた大阪の橋の数は実際には200ほどでした。その後大阪市の橋の数はどう変化していったのかというと、下のグラフのようになります。
明治22年(1889)大阪市制が施行されたときは、市域の橋は196橋でしたが、明治30年(1897)、大正14年(1925)の市域拡張により1629橋となります。その後は水路が埋め立てられて減少傾向となり、昭和30年(1955)の市域拡張により1470橋になります。高度経済成長期には万博開催等に向けての交通網の整備が進み増加傾向となりますが、その後下水道の整備等に伴う水路の減少で減少傾向に転じます。その減少の流れの途中、昭和50年(1975)にちょうど808橋となります。
昭和50年(1975)という時期は、高度成長期から低成長期に転じ、人々の価値観も開発一辺倒から環境への配慮や住みやすい街づくりへと転換する中で、大阪がかつての水の都大阪を取り戻そうという機運が起きた時期でもあります。現代版の「浪花八百八橋」を模索し始めたタイミングであるのが興味深いですね。

資料提供:大阪市建設局

受け継がれる水の都のDNA

かつては、大阪の経済をけん引してきた水運の衰退に伴い、川の存在自体が忘れ去られていた時代が長く続いていましたが、高度成長期が終焉を迎えると、ようやく大阪の水辺の環境悪化に対する反省が起こり、水の都と呼ばれた大阪の復権を求める機運が高まります。平成13年(2001)、大阪府、大阪市、経済界がともに提案した「水の都大阪再生構想」では、中之島、東横堀川、道頓堀川、木津川からなるロの字の川を「水の回廊」として再生し、大阪全体の活性化を目指しました。さらに、平成23年(2011)の河川空間の利用に係る規則が緩和されたことにより、水辺でカフェや川床、オープンテラスなどの営利活動もできるようになり、水辺のにぎわい空間が次々と生まれました。現在、大阪のまちに流れる水の都のDNAは、脈々と受け継がれ、大阪の暮らしの中に水辺の新しい歳時記が復活されて、住みたい、訪れたい、魅力的な都市として新たな進化を続けています。大阪の水辺を散策しながら、この街の歴史とこれからを体感してみてはいかがでしょうか。

土佐堀川南岸の北浜テラスからの眺め

土佐堀川南岸の北浜テラスからの眺め

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